KiKiK誕生ストーリー
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「人を喜ばせることが、喜びである」

その思いを、徹底的に私にたたきこんだのは、息子。母親にとっては、かわいそうで仕方がない子。自分の顔すら満足にかけない子。それを改善したくて、いろいろな研究・勉強をした結果、1日の限られた時間とはいえ、意思疎通ができるほどにまで回復しました。

意識が戻った本人は、最初はショックを受けたものの、そのあとはどこ吹く風。周りの人にどうやったら元気をわけてあげられるか、そればかりを気にしている子でした。1日に10分程度しか起きていられなくなっても、他人のことしか考えない。他人を喜ばすことしか考えない。

たくさんの人が会いに来てくれたけれど、「ありがとう」「がんばれよ」といつも笑顔で返事をしていました。

次男が医師になるための勉強がしたいと長男だった息子に言った時
「いいよ、(お金)出してやる。お前は天才だから勉強していつかお兄ちゃんをなおしてくれなー」と。

彼の破れた頭の中には使ってもへらない銀行預金があったのです。そのお金は他人のために使う時、必ずあるのです。

私の妹に子供が生まれたことを伝えた時にも、「生まれてくれてありがとう」と彼はうれしくて泣いていました。そして、「なんでも喜ぶおもちゃを買ってやって」と言うのです。「お洋服を買ってやったのよ」と伝えると、「もっと買ってやって」と自分ではなく、他人(ヒト)のことだと喜んでお金を出すのです。彼が喜ぶから、お洋服を毎月買っていました。その度に彼にカタログを見せると「どんなにかわいいだろう」と喜んでくれます。

自分には何にもいいことなんてないのに、自分は動けない身体なのに
他人のためにこんなに喜ぶことができることが私には驚異でした。

「こんな大人に愛ったから」で書いているとおり、私は出会った人が良かったんです。私は「愛されて」いました。

けれど息子はいじめが元で動けない身体。明日の生命の保障のない身体になっていたのですから、他者を喜ばせることが喜びなんて、自分だったらできない。息子は愛するためだけに生きて、他者を喜ばせることを喜びとしてだけ生きていました。

それが人間の本質、と息子から教わりました。学ぶまでに22年間もかかりましたが、学び終るまで彼は辛抱強く待って、生きてくれました。息子から学んだことを実践するため、みんなの居場所をつくるために、意学環境研究所を立ち上げました。

弟が生涯の伴侶を見つけ、彼女も医師だと伝えた時、彼は“ありがとう”と目に涙をいっぱいためて云いました。そうして、自分の役目は終わったというように、それを見届けると安らかに逝きました。

10数年が経ち、彼に会ったことがある人に加えて彼を知らない人たちも研究所に多くいます。けれど彼の残した他者を喜ばせることが人間として一番高位な人なのだというコンセプトは、無数の分子になって今も研究所の空気にとけこんでいます。

彼の言葉“生まれてくれてありがとう”は、20回を超える研究所イベント“みんなの誕生祭”に生きています。